田口線の沿革
(一部したらの文化財9図録田口線と用具、鳳来町誌田口鉄道史編より引用、平松憲子氏談含む)
 
明治33年(1900年)、私鉄豊川鉄道が東海道線の豊橋から長篠(現大海)までの営業を開始したのに続き、大正12年(1923年)には鳳来寺鉄道が長篠から三輪川に沿って三河川合までの運行をはじめると、この沿線から外れた長篠村・鳳来寺村・海老町・段嶺村・田口町を中心とした地域の指導者間に「寒狭川流域に是非鉄道を」という思いが増幅した。

特に北設楽郡の郡都である田口町(現設楽町)では町長関谷守男氏(当時の関谷醸造社長)、内務省に勤務し台湾の鉄道敷設で庶務課長として功績のあった田口町出身の平松雅夫氏らを先頭に、田口の市街地までの鉄道敷設を強く要望した。

 手始めに、豊川鉄道(豊橋−長篠間を経営)に資本と建設・経営について協力を要請、さらに段戸の御料林(明治22年宮内省所管、帝室林野局名古屋支所の段戸事業区として東海地方の有望な天皇家の山)に蓄積されている莫大な木材の効率的な輸送という見地から、管轄の宮内省に働きかけをおこなって、出資及び経営参加の取り付けに成功した。

宮内省の出資を勝ち取るため、平松雅夫氏は92回上京して(姪にあたる現設楽町議会議員平松憲子氏談)陳情活動を行った。今だから新幹線で日帰りもできるが、当時田口町から東京までの往復は大変なことだったにちがいない。

 しかし、宮内省も田口線敷設はそれなりに必要であったようだ。大正期の日本経済大発展の結果、木材需要が急増したため宮内省自身の財源確保を目的に御料林経営に本格的に乗り出そうとしたのである。こうした要請に応え木材を大量に搬出するためには、従来のような河川利用(くだ流し:木材をバラバラもしくはいかだに組んで川に流し下流まで運ぶ:寒狭川は急峻で特に難しかったそうだ)では限界が見えていた。これを打開するために森林鉄道が登場した。宮内省は段戸御料林の木材を運ぶ森林鉄道と田口鉄道を接続させ、御料林経営を抜本的に発展させることを目論んだ。

 同じように木曽の御料林でも加子母に森林鉄道が敷設され、加子母に接する付知が北恵那鉄道と結ばれ、川による木材搬送から鉄道によるそれに変更した事例があったため、田口鉄道への出資を宮内省が応じたという背景もあったようだ。さらに田口鉄道の経営に北越鉄道(現信越線)の国有化に手腕を発揮した、豊川鉄道専務取締役倉田藤四郎氏が参加することも宮内省の経営参加の後押しをしたものと思われる。倉田氏は田口鉄道の経営に手腕を発揮したが、その後社内での確執などにより田口鉄道を去り、津具金山の社長に就任した。その金山の跡は今でも津具村に残っている。

 話を戻し、田口町長関谷守男氏ら4名が宮内省へこの件で赴いたのは大正13年(1924年)であった。さらに、設楽町長関谷守男氏と豊川鉄道社長倉田藤四郎氏らが田口鉄道の敷設免許を鉄道大臣に申請したのは同14年、免許になったのは翌15年11月15日だった。

 当初の計画では豊川鉄道の長篠(現JR飯田線大海駅)から分岐して寒狭川に沿って遡上したのち、玖老勢−海老−田峯竹桑田−清崎経由、田口の街を終点とした経路で、動力は蒸気を予定していた。ところがこの途中、分岐駅を急遽長篠から鳳来寺口(現本長篠駅)としたうえで、経路も三河大草−鳳来寺−玖老勢へと変更、更に思わぬ急勾配となったことから動力を蒸気から電気として再申請(昭和3年10月)、受理されるという曲折があった。

 理由は田口鉄道の会社設立が近付くと、出資の辞退者が続出し資金不足が表面化したためである。それを補うためには大口の出資者が必要だった。当初大海から玖老勢、海老と抜けるルートを想定していたが、起点を鳳来寺口(現本長篠駅)に移して鳳来寺を経由することで鳳来寺鉄道と鳳来寺の出資を確保する目論見であった。事実このルート変更で両者から32.5万円の資金確保に成功した。

 設立時の資本金300万円のうち、地元やその有力者の出資はわずかで、宮内省125万、豊川鉄道75万、豊川鉄道系の鳳来寺鉄道20万、鳳来寺が12.5万とこれだけで80%近くを占めていた。田口町長関谷守男氏と元内務省官吏平松雅夫氏の貢献は多大であったことは事実だが、これを見れば田口鉄道は実質宮内省と豊川鉄道によって設立されたものと言えるだろう。
 

 田口鉄道建設は全区間を3期に分けて施工した。
 昭和3年5月11日、第一期工区(鳳来寺−海老間・11.6km)の工事に着手。全線のおよそ半分に及ぶ距離であったが約1年で完工、とりあえず鳳来寺鉄道より電力を供給したうえで、翌4年5月22日、この区間の営業を開始した。

 昭和4年5月22日には第2期工区(海老−清崎間・6.5km)着工した。途中の稲目隧道(約1.5km、県下の鉄道トンネルでは最長)の掘削、第1寒狭川橋梁など難工事の連続であったが翌5年12月10日この間の営業を開始した。

 昭和6年7月18日、第3期工区(清崎−田口間・4.5km)の工事に着手した。しかし実地測量の結果この間に著しい標高差があることが判明し、田口市街地への乗り入れは断念し、急遽寒狭川岸に駅を置くこととして工事をおこなった。このことから田口市街地と田口線三河田口駅間に2.1kmの連絡自動車道を新設したのち田口線終点三河田口駅を開設して7年12月22日に営業を開始し、ここに全線22.6kmの開通を見た。地元は田口市街(厳密には田口手前の大久賀多)への乗り入れを強く要望しスイッチバックなどの案もあったが、最後は最大の出資者宮内省の意向に押し切られた形となった。宮内省としては森林鉄道終点の寒狭川沿岸でなければ建設の意味がないわけで、当然の結果であろう。
 結果としてこのことが地元出身平松雅夫氏の不満を招き、確執の結果倉田藤四郎氏が田口鉄道を去る原因となったとの話もある。

 廃線跡を訪れるたびに思うが、この工事は当時としては大変なもので、同時に莫大な費用がかかったのだろう。当時の資本金300万円がどの程度のものかは分らないが、宮内省の資金力の大きさを感じる。清崎から三河田口にかけては何もない渓谷に発破をかけては一歩一歩進むという大変な苦労の上に出来上がったのだろう。高鉄橋を見てもその凄さが理解できるし、稲目トンネルなどはよくぞあれだけのものを1年ほどで完成させたものだと思う。犠牲になった人も多いと思うが、慰霊碑などがないのは当時ならではの理由だったと聞(ここには書けませんが)。

 豊川鉄道や鳳来寺鉄道(現飯田線)が国有化されたにも関わらず、田口線は国有化から外れたことも短命に終わった理由の一つであろうが、仮に国有化されていたとしても廃止は時間の問題だっただろう。当初から資金や経営、自然との闘いなど厳しい側面を持った田口線だったが、それなりに地元に根付きこの鉄道を軸として沿線住民の生活が組み立てられていたことは間違いない。しかし今でこそ第三セクターなどの選択肢もあるが、当時は自治体にもそのような財力はなく、かといって肩代わりできるような有力な地元の企業もなく、住民として廃止は受け入れざるをえない選択だったことだろう。

 「グイーン」というやたら大きなモーター音、「ガタンゴトン」とやたら揺れた田口線、廃止当時小学校高学年だった私にも思い出が数多く残っている。日曜日の帰りは座れないほど混んでいた、満員の田口線の中でぜんそくを発症し泣いたことなど・・・思い出は数えきれない。本当に懐かしい・・・・
私が乗ったころ、本長篠から田口行日曜の夜は結構混んでいた。座れなかったことも結構あった。

 田口線廃止によりかなりの貧しさだった我が家もポンコツ中古車を購入せざるを得なくなったのである。
 同じように森林鉄道に連結し宮内省の支援を受け、田口線とほぼおなじ運命をたどった北恵那鉄道も昭和53年9月、鉄道部門は廃止に追い込まれている。

 皆さんにはどうでもよいような話だが、私管理人の曽祖父が大正初めから一時期、海老=田口間の客馬車を経営していた。これはかなり儲かったらしい。祖父はよく「子供の頃、曾祖父と助手代わりに客馬車に乗った。」と言っていた。
他にも田口で「大正座」という芝居小屋も共同経営しており、曾祖母はそこで食べ物などを売っていた。更に曾祖母は腕の良い髪結いでこれも随分繁盛していた。要は我が家はかなり儲かっており、山も120枚持つほどの大金持ちの羽振りよさだった。祖父はよく「子供の頃は田口のすみからすみまで他人の土地を踏まずに行けたものだ」と言っており、相当なボンボンだった。しかし良いことは続かないもので、その後金持ちだからと借金の保障を求められ、いいわいいわで結局保障倒れで数多くあった土地や120枚あったという山全てを形に取られスッカラカンの無一文になってしまった。今ある猫の額ほどの土地と山は昭和の後半になってから極々一部を買い戻したもの。その後昭和に入ってからは製材所の経営に乗り出したが、これも木材不況のあおりを受け昭和40年代に廃業。おかげというわけではないが、我
が家は今もかなりの貧乏を暮らしている(苦笑)。ただ、このようなことを知っている人はもう田口にはほとんどいなくなってしまった。
そんなことはどうでもよい話なのですが・・・ごめんなさい。無視してください

 ただ、ひとこと言いたいことは、田口線を最も知るのは田口在住の人であるということ。終点から乗るからだ。三河田口駅以降から乗る人はそれより奥の三河田口までを知らない人が多い、当然だろう。三河田口まで来る必要がないからだ。もっと言いたいことは田口線に乗ったことが無い人に田口線を語られたくない。当たり前だ、聞いたことの受け売りでしかないし、知らないこと、もっと言えば嘘を適当に盛られては最悪だ

大正 14.5.19 豊川鉄道専務取締役倉田藤四郎氏、田口町長関谷守男氏、旧内務省官吏平松雅夫氏ら発起人により田口鉄道敷設免許申請書が鉄道大臣へ提出される。
    15.11.15 豊川鉄道長篠駅(現大海駅)〜田口間の「蒸気鉄道施設」が認可される
昭和 2. 9.30 基点を長篠駅から鳳来寺口駅(現本長篠駅)に変更し、三河田口駅までの「電気鉄道変更」が認可される。
  2.11. 5南設楽郡海老町高島屋旅館で会社創立発起人会を開催。
  2. 11. 6南設楽郡海老町・東泉寺にて田口鉄道株式会社創立総会を開催
   2.11.19 資本金300万円をもって田口鉄道株式会社発足、総株数6万株、株主880名、筆頭は宮内省2万5千株、豊川鉄道1万5千株、鳳来寺鉄道、鳳来寺住職、丸山喜兵衛氏・関谷守男氏・平松雅夫氏の順。本社を豊川鉄道、鳳来寺鉄道本社と同所の豊橋市花田町字石塚90に置く
   3. 5.12 全線22.6kmのうち第一期工区の鳳来寺口−三河海老間11.6km着工。
   4. 5.22 鳳来寺口−三河海老間の営業開始。同時に第二期工区三河海老−清崎間の6.5kmの工事に着手。
   5.1210 稲目隧道掘削など難工事を克服して、三河海老−清崎間の営業開始。
   6. 7.18 第三期工区・清崎−三河田口駅4.5kmの工事に着手。
   7.12.22 田口市街と標高差150mの寒狭川沿い、田尻地区に終点三河田口駅を建設。田口市街と三河田口駅間2.1kmに自動車道を新たに建設し、清崎−三河田口間の営業を開始、ここに全長22.6kmの全線開通を見る。
  17. 8. 1  採石場を設け線路用砂利の生産を開始、最盛期には月産約1200リューベ。
  18. 8. 1  姉妹会社の豊川・鳳来寺鉄道が国鉄に買収され、飯田線となる。
  20. 7.27 戦災のため本社を豊橋から鳳来寺駅に移転。
  22後半頃 名古屋鉄道名義の株18800株が名鉄9人の重役に割り振り名義を書き換える。
  23前半頃 宮内省解体により大蔵大臣代理官名義の25000株の放出が強行され、すべて地元で引き受ける。200〜300株引き受ける人が多数現れる。
  23.11. 1  資本金を倍増し600万円となる。(26年には900万円に増資)
  26. 4. 1  国鉄・名鉄と相互乗り入れ運転契約締結、豊橋行き直行電車運行。
  31.10. 1  田口鉄道、豊橋鉄道に合併され、当線は豊橋鉄道田口線となる。
  33.10   奥三河の豊かな自然観光資源活用のため、玖老勢駅の改修、清崎駅保安装置新設など積極的な設備投資を行う。
  34. 9.26 伊勢湾台風により道床流出40m、土砂崩壊7か所、木柱折損3本、木柱傾斜6本、倒木10本、通信線断線など多大な被害を受け、5日間正常運転できず。
  36頃   好調な業績により海老変電所改良工事、無蓋貨車2両空気制動装置取り付けなど設備投資を行う。
  同     旅客列車は全区間にわたりほぼ一時間間隔で運行、1日15往復。全2本が国鉄飯田線に乗り入れ、豊橋まで通じていた。名古屋から鳳来寺まで直通列車もあった。私鉄が国鉄に乗り入れるということは極めて異例であったとのこと。貨物列車は全区間に上り1本、下り2本、不定期が1往復あった。また、鮎釣りシーズンには24年より清崎三河田口間に夏季のみ鮎淵という臨時停車場を設けていた。私の記憶では木で櫓を組んだような粗末なものだった。車両は電動客車5輌、付随客車1輌、貨物は電気機関車1輌、貨車20輌があった。
  38. 3.24  国鉄飯田線への乗り入れ廃止となる。数年前から木材等の運送が鉄道からトラックへと次第に移行、沿線の過疎化が進行した。また、40年頃から自家用車がにわかに普及した。
  39.10 豊橋鉄道、沿線町村に田口線廃止の協力を要請。これに対応して鳳来町はじめ各町村に「田口線存続協議会」が結成される。
  39.12 豊橋鉄道、田口線のバス化計画を発表。
  40. 3.31  40年度下期の株主総会で今期は無配に転落したことを報告。
  40. 5.12  製材業者が愛知県知事に存続を陳情するなど、存続運動がますます活発化する。各駅や要所に「廃止絶対反対」のビラが貼られるようになる。
  40. 9.18  台風24号の被害甚大、清崎−三河田口間の営業を休止、バス代行となる。
  42. 8.25  名古屋陸運局より調停案出される。地元では国鉄移管も話題となる。
  43. 7.19  本長篠−三河田口間の運輸営業廃止が認可される。
  43. 8.31  39年間に渡った田口線廃止、「さよなら電車」走る。

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